2008年10月11日
2008年09月24日
2008年09月13日
2008年09月12日
2008年09月11日
神指城址のケアキ
このケアキの大木は、樹齢1000年以上
あるといわれ、兼続が神指城築城時にはすでに
巨木であったといわれ、神指城東北角の土塁
の史跡に悠然とそびえている。
会津磐梯山の噴火も、神指城の築城の様子も
さらに以前の古代から静かにみていたのでしょう。
2008年09月10日
神指城址より会津磐梯山を望む
黄金色に色付き始めた田んぼの向こうに
会津磐梯山がそびえる会津盆地。
神指城址とは、上越から米沢に移る前の
慶長の3年間、上杉が秀吉の命で会津にうつり
築こうとした巨大な城郭跡で、家康の関ヶ原
の戦いの勝利で工事を中断、廃城となった。
現在は、東北隅の土塁の一角が史跡になっているが
航空写真でないと城址の形を確認できない。
吾妻荘公式ホームページ
Posted by 小野川温泉 吾妻荘 at
17:26
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2008年09月09日
昭和の画家
小さい頃に事故で隻眼になった。
この少年は、異常に絵が好きで地元の
狩野派の絵師に師事した。
20代で戦争にとられたときに、岩絵の具を
瓶につめ実家の縁の下に隠した。
中国大陸を従軍し、終戦で必死に足がぼろぼろになって
何百キロも歩き、生還した。
実家に帰り、岩絵の具を掘り出しまた絵筆をとった。
朝、昼、晩、隻眼のハンデイを克服するために
色々に角度から数十枚のデッサンをかき、
絵を描いた。
後年は、ヒマラヤを命がけで描き みるものに
力を感じさせる。
文化勲章受章の栄誉を受けた。
この写真は、30代の若い頃に宿の主人が
色紙を所望したところを写した写真です。
吾妻荘公式ホームページ
2008年09月09日
尼湯
小野川温泉街の顔 尼湯。
毎日、数十人の浴客が訪れる。
熱い湯で有名でNHKでも放映された。
戦後すぐに、この真ん前に米沢の土建屋さんが
温泉の掘削申請したことがある。
天童の温泉協会の偉い人がきて
この掘削を阻止した。
今は昔である。
2008年09月06日
2008年09月05日
昭和の会津街道
吾妻荘脇の坂道。車一台がやっと通る。
堀が街道沿いにほられている。
元はてぼりで、U字溝を入れたのは
車の普及とともに道路が舗装されてからだ。
ここは江戸期に綱木から裏磐梯、会津にぬける
裏街道で、西郷隆盛や頼山陽が通ったとされる。
戦国期は館山城から会津にぬける主要道の一つ
であったものでしょう。
吾妻荘公式ホームページ
2008年09月04日
昭和の香り
直江がきた頃には、温泉街であった湯の町小野川。
左は、尼湯。右に扇屋。
扇屋には、慶應年間の棟札残る土蔵に
戦国期、会津の芦名から伊達の執政
遠藤基信宛の書簡が残る。
合戦の応援要請である。
昭和は戦後と戦前が入り交じって生きている。
吾妻荘公式ホームページ
2008年09月01日
昭和のアンデルセン
旅の芭蕉さま
世が2度あらば
ござれ小野川
湯の宿に
同級会にしばしば小野川を訪れた浜田廣介が
旅館の色紙にしたためた短歌碑。
芭蕉は山寺までは訪れたが、米沢盆地には
きていない。
母はなく
父もまた無き
故郷の
さつきの闇を
ほたる飛びをり
吾妻荘公式ホームページ
2008年08月31日
湯の神様
湯の神、お薬師様の境内は昭和までは
子供の遊び場であった。
車社会、少子高齢化、核家族化がすすむと
ともに子供は路地や屋外で遊ばなくなった。
小野の小町建立の伝承は、奥州藤原から
伝わったもので平泉あたりに伝承の起源がある。
近くの道明山城の宮崎が藤原の末裔の一人で
梁沢村の起源が宮崎の一族郎党の残留組だからである。
江戸期は尼湯の後ろにあったが明治期に
現在地に移った。温泉の効能に感謝する人々の
信仰がうかがわれる。